第三話 ショーケース

次の日、雨はすっかり上がって、雲間からやわらかな朝の光がさしていた。
少しだけ気持ちが軽くなった僕は、昨日とは違う、軽い足取りで町外れの喫茶店の扉を押した。
木製の扉の向こうには、いつもと変わらぬ落ち着いた空気と、マスターの穏やかな笑顔が静かに迎えてくれる。
昨日感じていた胸の痛みも、コーヒーの香りに溶けていく気がした。

マスターは変わらぬ手つきで、丁寧にコーヒーを淹れてくれた。
カウンターの奥では、リクガメのカフカがのそのそと僕の足元に近寄り、小さな目でじっと見上げてくる。
餌をねだる仕草は、昨日と同じゆっくりとした動きで、その存在が店内に優しい空気を添えていた。
マスターは微笑みながら「カフカも君のことを待っていたみたいだね」と、静かに声を掛ける。

「昨日はありがとうマスター。話を聞いてくれたおかげで気持ちが少し晴れたよ。」

それはよかったと、カフカに小松菜をあげながらマスターが言う。

「それでなんだけれども、昨日のマスターの話がきっかけで、いのちの価値というものに興味が湧いたんだよね。もう少し話を聞かせてくれないかな。」

マスターは少し驚いたように眉を上げたが、そのまま柔らかな微笑みを浮かべた。
ふと、コーヒーを注ぐ手つきや眼差しに、元大学教授の風格を感じる。

そうかとマスターは呟き、今日は宝石の話をしようと続けた。

「私はね、どの生命も、それぞれダイヤモンドやルビー、サファイアみたいなものだと思っているんだ。『宝石』という存在そのものが等しく貴重なのと同じで、人も動物も植物も、“生きている”というだけでその価値は同じなんだよ。これが“生命の客観的等価性”――つまり、どんな命も存在そのもので尊いということさ。」

「なるほど、僕はサファイア、マスターはダイヤモンド、カフカは・・・ベッコウかな?」

冗談が言えるほど元気になったかとマスターは笑い、こう続ける。

「この店が宝石店だとしよう。そして様々な種類の宝石がこのショーケースの中に入っている。」

とカウンターを指差す。

「お客さんはある宝石を特別に感じたり、宝石同士を比べたりもする。ある人はダイヤモンドを最高と考え、別の人はルビーに魅了されるかもしれれない。」

「また、同じお客さんでも気分によって欲しい宝石が変わるし、見たことのない美しい宝石を発見したらその人の宝石の価値観が一転するかもしれない。」

なるほど、僕もカフカに出会ってから亀という宝石の見方が変わったのを実感している。

「これは“主観的価値判断”といって、時代や文化、個人の経験で評価や扱いが変わるものなんだ。でも、どの宝石もその本質的な価値――つまり“存在価値”自体が減ったり増えたりすることはない。」

「つまり『およそ生命という存在は平等で等価値』であると同時に『もっぱら個人の主観的価値判断』によって最終的な価値が定義づけられる。そしてその価値は主観的価値判断によって揺らぎうる。これが私の基本的な考えで”客観的生命等価値論”と呼ばれているんだ。」

私の話し終えた元教授のマスターは、優しく微笑みながらもしばらく沈黙した。
眼差しの奥には、問いを残す余韻と、僕が自分の答えを見つけてほしいという静かな願いが浮かんでいて一瞬だけ、講義を終えた後の満足そうな、しかし少し切なげな表情が重なって見えた。